けっこう長いこと生きていますので、ピンチと称される出来事はたくさんあったと思われますが、大変な思いをしたわりには忘れちゃってるものも多いんですよね。ただ、これだけは絶対に忘れないし、その時の情景は今もまざまざと思い浮かんでくるという事件がひとつございます。それは「マンションの入口の鍵が折れて抜けなくなった」こと。
当時の私は二十代、関東地方の大学を卒業したあと社会人として働きながら、同人誌を作ってはイベントと呼ばれる即売会に参加するのを趣味とするヲタクでした(今でもヲタクですが)。同人誌即売会といえば最も有名なのがコミックマーケット(コミケ)ですが、それ以外にも定期的に催されるイベントが幾つかあり、当時は晴海国際展示場を使ってほぼ毎月のように開催されていたのです。
やがて家庭の都合でUターンをして地元で再就職したため、晴海でのイベントに参加する際には都内在住の友人Sのところに泊めてもらうようにしていました。Sはイラストレーターの専門学校を卒業後、一人暮らしをしながら働いている女性で、一緒に同人誌を作る仲間でした。いつもは駅で待ち合わせをして夕食を摂ってから、彼女の住む賃貸マンションに転がり込み、翌日二人でイベント会場へ行くというパターンだったのですが、そんなある日、待ち合わせの予定日に仕事が入ってしまい遅くなるので、部屋で待っていて欲しいということで、Sから合鍵が二つ送られてきたのです。
当日、私は意気揚々とSのマンションに向かいました。道程はとっくに覚えていたので迷うことなく辿り着き、あとはお部屋でゆっくり待たせてもらおうと、マンションの共有部分となる、入口のドアを開けるための鍵を差し込んだのです。ところが、鍵穴に鍵は入るものの、回そうとしても動かない。焦って、もう一度力を入れて回したところ「ポキリ」と……鍵穴の中にギザギザした先の部分だけが残った状態になってしまったんですね。指や手持ちのペンなどで取り出すことは不可。全身から血の気がザザーッと引き、頭の中は真っ白になりました。このままでは、もしも他の住人の方が帰ってきたとしても、鍵穴が使えないから入口は開けられない。ここの住人ではない、他所から来た変な女がやらかしたってんで大ヒンシュク決定じゃないですか。パニックになりかけましたが、何とか踏みとどまりました。
で、藁にすがる思いというんですか、鍵穴の上のパネルに設置された管理人呼び出しブザーを押したところ、建物の中から六十代ぐらいの男性が出てきて、事情を説明したらペンチか何かの道具を持ってきて、折れた鍵の先を取り除いてくれました。ホッとした私に管理人さん曰く「今日はたまたま管理人室にいた」。つまり、いない日時もあるということ。もしも当日が管理人さんのいない日だったらと思うと、空恐ろしくなりましたね。
ともかくこれで共有部分の鍵はおじゃん。もうひとつは当人の部屋の鍵になりますが、いくらそれを持っていても中に入れるわけにはいかないということで、私はSが帰るまでの間、駅に戻るとあちらこちらをさまよって時間を潰し、彼女の帰宅時間を予測して再びマンションの前へと向かったのです。Sの会社の電話番号は知らないし、携帯電話のない時代でしたから、途中で連絡を取ることも出来ない。行き違いになることを考慮して、例のパネルのところに「ふせん」に書いたメッセージを貼って残しておくという、綱渡り手法を使いました。これ、Sが帰る前に、誰かに握り潰されたら、取って捨てられたらアウトじゃないですか。それでもそんな手段しかなかった。
その後、Sに会えて事無きを得て、翌日のイベントもいつも通りに参加し、いつも通りに無事終了しました。で、翌々月あたりも懲りずにイベント参加申込みをしたと思いますが、あの鍵事件のような出来事はもうコリゴリってんで、以降、Sとスケジュールが合わない時は割り切って、一人で日帰り参加にしましたね。あれからXX年が経ち、あらゆるピンチに晒されましたが、あそこまでインパクトのある事件は起きていないかな。心臓に良くないので(今だったら脳出血とか心筋梗塞起こしそう)二度とは起きて欲しくありませんが。